最高裁判所第三小法廷 昭和54年(オ)750号 判決 1981年3月24日
上告人
日産自動車株式会社
右代表者代表取締役
石原俊
右訴訟代理人
小倉隆志
被上告人
中本ミヨ
右訴訟代理人
小池貞夫
中島通子
外三名
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人小倉隆志の上告理由第一点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
同第二点ないし第七点について
上告会社の就業規則は男子の定年年齢を六〇歳、女子の定年年齢を五五歳と規定しているところ、右の男女別定年制に合理性があるか否かにつき、原審は、上告会社における女子従業員の担当職種、男女従業員の勤続年数、高齢女子労働者の労働能力、定年制の一般的現状等諸般の事情を検討したうえ、上告会社においては、女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも六〇歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない旨認定判断したものであり、右認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当として是認することができる。そうすると、原審の確定した事実関係のもとにおいて、上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法九〇条の規定により無効であると解するのが相当である(憲法一四条一項、民法一条ノ二参照)。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。所論引用の判例は事案を異にし、本件には適切でない。論旨は、いずれも採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(寺田治郎 環昌一 横井大三 伊藤正己)
上告代理人小倉隆志の上告理由
第一点 昭和二四年の整理解雇の効力についての理由不備、理由齟齬。<省略>
第二点 憲法第一四条の解釈の誤り。
原判決は(1)「全ての国民が法の下に平等で性による差別を受けないことを定めた憲法一四条の趣旨を受けて、私法の一般法である民法は、その冒頭の一条の二において、『本法は個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として解釈すべし』と規定している。かくして、性による不合理な差別を禁止するという男女平等の原理は、国家と国民、国民相互の関係の別なく、全ての法律関係を通じた基本的原理とされたのであつて、この原理が、民法九〇条の公序良俗の内容となすことは明らかである。」とし、(2)わが国の実情からすると「基本的には男女とも同じ職業人として合理的な競争条件の下に平等に取り扱うことが要請されており、企業経営の本来のあり方としても、そのような取り扱いを否定することはできないものと考えられる。」とし、(3)「定年制の内容に差別が設けられる場合は、それが社会的見地においても妥当であつて、その適用を受ける者の納得が得られるものであることが、強く要請されるものということができる。」とし、(4)最後に「以上検討したところから考えると、定年制における男女差別は、企業経営上の観点から合理性が認められない場合、あるいは合理性がないとはいえないが社会的見地において到底許容しうるものでないときは、公序良俗に反し無効であると解するのが相当である。」とした。
ところで右(4)の結論に到るまでの原判決の思考過程は必ずしも論理的に明らかではない。(1)のところでは「性による不合理な差別」としているのに対し、(4)のところでは「合理性のない差別」として異なつた表現をとつており、(1)とは無関係に(2)と(3)のみから(4)の結論が導かれているかのようにも受けとれるのである。そうだとすると何のために(1)の判示をしたのかわからなくなる。むしろ無用の判示ということになる(原判決が無用の判示をしたと思われるのは他にも見受けられる。例えば会社の定年制を「定年解雇制」としているところである。会社の就業規則(乙第二二号証の一)第五六条にはいわゆる普通解雇の場合が定められているが、これには定年が解雇理由として掲げられておらないのであるから、会社の定年を「解雇制」と断ずること自体も誤りであるが、その点はさておいても、「定年解雇制」との判示は全く関係のない無用な判示としかいいようがない。)。しかし原判決がわざわざ憲法まで持ち出したと思われず、結局合理的理由のない男女別定年は民法第九〇条の公序良俗に違反するとの(4)の結論の前提として(1)の判示をしているとみるのが最も素直な原判決の読み方といえよう。
そうすると、(1)から(4)を通して原判決のいわんとしていることは、憲法第一四条一項は合理的理由のない男女別定年はたとえ差が五才たりとも禁止しているものであり、その趣旨は民法第九〇条の公序良俗の内容になつているということに帰する。
しかしながら、憲法第一四条一項が厳格な意味での男女平等扱を要求しておらず、合理的理由のない労働条件についての男女差別を認める労基法の規定、男女の受給年令に五才の差を設けた厚生年金保険法の規定等もその許容範囲に含まれ、従つて五才程度の差の定年制も含まれることは、すでに会社が昭和五三年七月一九日付準備書面で明らかにしたところであり、原判決もこれを当事者の主張として摘示するところである。原判決がこの会社の主張に何らの判断も加えずこれを一切無視して第一審判決と同趣旨の判示をしたのは理由不備でありかつ憲法の解釈を誤るものである。
第三点 判決に影響を及ぼすことの明らかな民法第九〇条の解釈の誤り。
一 前記上告理由第二点の冒頭に記載した原判決の判示(1)は、それ自体の趣旨がこれまた必ずしも明らかではないが、要するに憲法第一四条一項の趣旨がそのまゝ民法第九〇条の公序良俗の内容となるというものである。原判決は民法第一条の二も援用するが同条にいう男女の本質的平等も憲法第一四条一項をうけているのであるから結局同じことをいつているのである。
しかしながら、憲法第一四条一項をどのような趣旨に解するにせよ、その趣旨に反する行為が即民法第九〇条違反とするのは同条の解釈を誤つたものである。すでに会社が昭和五三年七月一九日付準備書面三二頁以下で述べている通り、憲法第一四条一項の趣旨に反したからといつてもそれが直ちに公序良俗違反ということはできないのである。最高裁の判例もすでに十勝女子商業学校事件において「憲法で保障されたいわゆる基本的人権も絶対のものではなく、自己の自由意思に基く特別な公法関係上または私法関係上の義務によつて制限を受けるものであることは当裁判所の判例(昭和二六年四月四日大法廷判決参照。判例集五巻五号二五一頁)の趣旨に徴して明らかである。」とし(昭和二七年二月二二日民集六巻二号二五八頁)、三菱樹脂事件においても人権の侵害が社会的許容性の限度を超える場合にのみ民法第九〇条の適用の問題が生ずるとして、人権の侵害即公序良俗違反とはならないことを宣言している(昭和四八年一二月一二日民集二七巻一一号一五六三頁)。従つて原判決は法律の解釈を誤ると同時に大法廷を含む最高裁の判決にも違背する。
それでは、民法第九〇条の公序良俗とは一体何であろうかというに、会社が前掲準備書面三五頁〜三七頁に述べ原判決も要約摘示したように、結局は法律行為当時の「国民感情」がどうであつたかが最も問題になる。これを最高裁の判例に即してみると事柄がより明確となる。すなわち、「民法第七〇八条にいう不法の原因のためになされた給付とは、公の秩序若しくは善良の風俗に反してなされた給付をさす」として、民法第七〇八条不法原因給付の「不法」の意義が、同法第九〇条の公序良俗と同義であることを明らかにし(昭和二七年三月一八日民集六巻二号三二五頁)、さらに「民法第七〇八条にいう不法原因給付によるものであるかどうかは、その行為の実質が当時の国民感情に照らし反道徳的な醜悪な行為としてひんしゆくすべきほどの反社会性を有するかどうかによつて決するのが相当である」とし、公序良俗の意義内容についての具体的見解を明らかにしているのである(昭和三五年九月一六日民集一四巻一一号二〇九頁)。
ひるがえつてもう一度原判決をみると、「不合理な差別を禁止する男女平等の原理」との表現を使い、「不合理」という意味が極めて抽象的な表現ゆえに不明であるが、ともかく憲法第一四条一項の趣旨が右の通りであつて、それが直ちに民法第九〇条の公序良俗の内容となるというのである。しかしこの原判決のいう公序良俗は最高裁判例のいう公序良俗よりも極めて抽象的であり広範囲な概念であることは一見して明らかである。従つて原判決は公序良俗の解釈につきこゝでも最高裁の判例に違背しているのである。
しかして昭和五三年七月一九日付準備書面で明らかなように、上告人の主張は、男子五五才(昭和四八年四月一日の就業規則改正後は六〇才)、女子五〇才(同五五才)というたかだか五才の差しかない男女差別定年制は敢えて合理的理由を問うまでもなく最高裁判例にいう公序良俗に反しないというものである。ところが原判決は、これまで述べたように公序良俗の概念を誤判してしまつたのであつて、この誤判が判決に影響を及ぼすことは論ずるまでもなく明確である。
第四点 定年制の解釈に関する理由不備、理由齟齬。
原判決は、本件上告理由第二点冒頭に記した(4)の結論を導くに当つて、第一審判決とは異つて新たに、(2)及び(3)の判示を追加した。しかしながら、次に述べるように、右(2)及び(3)の判示もことごとく誤つている。
一 右(2)の判示について
(一) 右(2)の判示をするに当つて原判決は、まず「ところで、女性の職業活動については、夫婦の役割分担に関連して積極消極両様さまざまの評価が行われ、被告会社のようにこれを消極的に評価する立場からは、労働条件における男女差別自体男女平等の原理に反しないと主張される。しかしながら、夫婦の役割分担とこれに関連する女性の職業活動の是非は、直接的には当該夫婦を中心とする家庭の問題であり、また社会の基礎単位をなす家庭生活の安定と次代の社会の構成員の健全な育成に関心をもつ社会全体の問題であるが、提供される労働力を利用するだけの立場にある企業としては、右の問題につきいずれかの見解に立つて規制する立場にはなく、この問題については社会の実情にそつた国民一般の良識に従うべきものと考えられる。」とし、「そこで検討すると云々」として(2)の判示に到達している。
しかしながら、「被告会社のようにこれを消極的に評価する立場」との判示は、全く証拠もない誤つた独断である。会社はいまだかつて女性の職業活動について、積極的にこれを奨励する立場もとつてはいないが、そうかといつて消極的に女性は家事に従事すべしとの立場もとつたことはないのである。昭和五三年七月一九日付準備書面五四〜五頁に述べたように、ただ単に五〇才になるまで勤務する女子が従来皆無に等しかつたという社内事情と世間一般でも概ねそのような傾向にあつた実態及びさらにさかのぼれば甲第一〇一号証の有泉意見書にも述べられているように「民間企業では男子五五才、女子五〇才という定年が多い」という実情もあつて女子五〇才の定年制を設けたにすぎないのである。そうであるから、前記(2)の判示は会社が実際にとつていなかつた立場をあたかもとつていたものとしてこれを前提にしてなされたものであるから、そもそも本件にとつて無用無関係の判示というべきであるとともに斯る判示を加えること自体的外れで誤つている。またこの意味では、原判決がなぜこのような判示をしたかも不明で、結局理由不備の違法があるというべきである。
(二) 次に原判決は前にも記したが、「そこでこの点について検討すると」と始まつて、証拠を検討した結果として、「女子の生産年令人口(一五才以上の人口)のうち収入のため働く必要のある労働力人口は昭和四〇年代においてほぼ半数であり」と述べただけで、今度はいきなり昭和四九年の場合に視点を飛ばし、むしろ昭和四九年の女子労働者の実態のみに基いて前記(2)の判示に到達している。しかも前記(2)の判示は、合理的理由のない男女差別定年は公序良俗に反するとの(4)の判示の理由の一とされているのが明らかである。従つて原判決は、昭和四九年の女子労働者の実態をもつて、合理的理由のない男女差別定年制は民法第九〇条の公序良俗に反するとの結論に関係づけているのである。
しかしながら、前記(一)の判示が無用のものである以上これと一体をなす右判示も無用のものであるのはいうまでもないが、この判示を単独でとりあげてみても誤つている。およそ法律行為が民法第九〇条に該当するか否かの判断の基準点はいつかというに、いうまでもなくそれは法律行為のなされた時である(注釈民法(3)五五頁)。しからば就業規則の定年制が問題となる本件で、右にいう法律行為の時とはいつのことかが次の問題となつてくるのであるが、雇用関係が継続的なものであることからすれば、就業規則制定時というのはおかしいので、被上告人に会社の就業規則が適用されるに至つた昭和四一年合併時点かもしくは遅くとも被上告人の定年退職の時点ということになる。そうすると被上告人との関係では、定年制の効力判定時点は、遅くとも五〇才に達した昭和四四年一月である。従つて、もし原判決のように、本件定年制の効力を判断するに当つて、女子労働者の実態を検討する必要があるなら、昭和四四年当時の実態を検討して結論を出すべきである。それにも拘わらず、昭和四九年の実態にのみ基いて被上告人との関係において本件定年制無効の判断に結びつけているのは、まことにもつて理由不備、理由齟齬である。のみならず、原判決の援用する統計上の数値を民法第九〇条の解釈と会社の定年制の効力判断に影響させようとするのなら、どのような数値がいかなる程度の数字に達したときに影響を与えるのかをまずはつきりさせる必要がある。何となれば、統計上の数値は最近のものと以前のものとではその間に変動がある筈であるし、原判決の趣旨もこの変動に応じて民法第九〇条の解釈を変動させるべきだとの立場をとつているからである。それにも拘わらず原判決はこの点に一切ふれていないのであるからこれまた理由不備である。
(三) 最後に(2)の判示にもどつてみよう。その内容は、「基本的には男女とも同じ職業人として合理的な競争条件の下に平等に取り扱うことが要請されており、企業経営の本来のあり方としても、そのような取扱を否定することはできないものと考えられる。」としたのである。
しかしながら右にいう「合理的な労働条件の下に平等に取り扱う」とは具体的にいかなることか判然とせず、その意味で右判示はすでに理由不備である。想像するに原判決は、労働力の提供者としての男子と女子が本来等質なものであるとの認識のもとに、女子労働者が増加している折柄平等扱をしないのは公序良俗に反するのだといわんとするのかのようである。しかし、周知のように女子には労基法上大巾な就労制限があり、この点からして労働力の提供者として男子に劣ることは明らかである。(これは女子自体が劣るという意味ではなく労基法によつて劣る結果となつているという意味であるので念の為)。また女子が高令になつてまでも勤務する傾向にあるとしても、多くの場合結婚や出産で一旦勤務を中断し、家事育事にあまり煩わされなくなつた頃再び労働市場に姿を現すこと、さらに中断後の再勤務でも家事育児が全く不要となるわけでもないので多くの場合パートタイマーもしくはアルバイトとしてこれまた男子と較べて劣つた労働者として勤務していることは顕著な事実である。原判決の採用する甲第九三号証の一〇頁にも「短時間就業者の増大」として「家庭婦人の職場進出の増大に伴つて、近年、パートタイム就労の女子雇用者の増加が著しい。」とあり、「就労形態の多様化」として「既婚婦人・中高年婦人の雇用増大にともなつて、最近では結婚まで就労する者のほか……結婚、出産により一時職業生活を中断し育児の負担が少くなつた段階で再び職業生活に復帰する者、中・高年になつてはじめて職場に出る者など女子雇用者の就労形態は多様化してきた。」とある。(参考のためにいえば本件では証拠に出ていないが労働省婦人少年局編「国際婦人年記念――婦人の歩み30年」(昭和五〇年)でもその二四三頁以下でとくに「主婦のパートタイム雇用」の項を設けて解説しているほどである。またこれも証拠にはないが労働省婦人少年局婦人労働課長高橋久子氏著「婦人労働の法律問題」(昭和五〇年)二二頁でも短時間就労者の増加として「家庭婦人の職場進出の増大に伴つて、パートタイム就労者の増加が著しい。」と述べられている。)。そうであるから、原判決の認定した通りの女子労働者の実態があるとしても、生涯をかけて労基法の制約も勤務中断も短時間勤務もなく勤務する男子労働者と較べて質においてかなり劣るのであるから、原判決のいうような平等扱などは到底無理な話であつて、これに目をおおつた原判決の判示は依然として理由不備、理由齟齬である。
二 前記(3)の判示について
原判決は前記(3)の判示の前提として「しかして定年制は、労働者に職業生活の中断を強いるものであつて、労働条件のうちでも解雇と同様に重大なものであるが、それが通用力を持つのはその内容に平等性があることによるのであつて、理由のない差別はかえつて定年制自体の通用力を減殺する結果を招くのみならず、定年制の内容に適正を欠くと、定年時以前から従業員の職業生活に対する希望と活力を失わせるという弊害が生ずる」とした。
しかしながら、第一に定年制の「通用力」なるものの意味内容がさつぱりわからない。従つてその点ですでに右判示は理由不備である。のみならず平等性が定年制を権威づけるかのような判示は誤つている。そもそも定年制は「多数の労働者につき画一的に、定年自動退職または定年解雇を定めたものであるが、この画一的取扱の例外として、定年退職制の場合、特別の事情のある者につきいわゆる再雇用や定年延長(留職)の特例が認められることを定めているのが普通であり、定年退職の画一的取扱になんらの例外も認めない場合はむしろ稀れである(明文の規定がなくても実際の運用面でかかる例外的取扱が認められるのが普通)」という実態を有している(労働法大系5蓼沼謙一「定年」二〇四頁)。このように本来定年制は画一平等扱の実態を有していないのである。会社の定年制にしても同様で、乙第二二号証の一の第五七条二項但書に定年延長の規定を設けているのである。従つて平等性を定年制の唯一のよりどころとするかのような前記の判示は誤つているというべきである。
第二に定年制の内容に適正を欠くと弊害が生ずると判示するのであるが、これは証拠のない全くの独断である。原判決からすれば、会社の定年制も合理性がないから内容に適正を欠く部類に属するのであろうが、原判決にいうような弊害は毫もない。一般的にいつても男女に格差を設ける定年制を採用する場合の方が差のない場合よりも弊害がある等ということは客観的にも存在しない。従つてこの点も原判決の理由不備である。
かくして、前提が誤つているのであるから結論ともいうべき前記(3)の判示も誤つていることになるのである。
三 冒頭に述べた通り、前記(4)の結論は(2)と(3)を理由として導かれたものであるところ、(2)と(3)の判示が誤つているのであるから、(4)の誤りも明らかである。なお(2)と(3)の判示は民法第九〇条の解釈にかかわりのあるものであるから、これを誤るのは判決に影響を及ぼす法令違背でもある。
第五点 会社の定年制の効力判断についての理由不備、理由齟齬。
会社は昭和五三年七月一九日付準備書面三七頁以下において、会社の定年制が民法第九〇条に該当しない理由を主張した。これに対して原判決は左に述べるように会社の主張に対してまともに答えていない。
一 原判決は、「被告会社は種々の理由をあげて、定年の男女差別に合理性がなくとも、その差別は、大多数の国民感情に反しないし、公序良俗に違反するものでもないと主張するけれども、被告会社のあげる理由によつては大多数の国民が合理性のない定年の差別を容認していると認めることはできないし、社会の一部になお男女差別を容認する意見があるとしても、それが故に法秩序の基本である男女平等の原理が否定されるものでもないから、右主張は採用することができない。」とした。
しかしながら第一に、会社はたかだか五才の差しかない本件定年制は合理的理由がなくとも公序良俗に反するとまではいえないと主張したものである。しかるに原判決は的を五才差の定年制にしぼらず東急機関工業(二五才差)や伊豆サボテン公園(一〇才差)の各事件における大きな差のある定年制と何ら区別することなく一緒にして判断を下しているのであつて、明らかに理由不備がある。
第二に、「被告会社のあげる理由によつては大多数の国民が合理性のない定年の男女差別を容認していると認めることができない」とした点が立証責任との関係で問題となる。そもそも会社の定年制が民法第九〇条に違反することの立証責任は被上告人が負担すべきことはいうまでもない。しかも被上告人はさきに述べた最高裁の示す意味での公序良俗違反を立証しなければならないのである。そうすると被上告人の立証の命題は会社の定年制が大多数の国民感情に照らしひんしゆくすべきほどの反社会性を有することである。そうであるのに原判決は大多数の国民が積極的に会社の定年制を容認しない限り公序良俗に反すると考えているようであるが、それは最高裁の判例と著しく背馳するものである。以上に対して会社は諸々の証拠をあげて大多数の国民が積極的に会社の定年制を容認しているかどうかはわからないにしても(原判決は容認したとは認められないとしているがこれも推定にほかならず、逆に否定しているともいい切れない。要するに本件の全証拠をもつてしても大多数の国民が会社の定年を積極的に容認しているかは不明であるとするのが最も正確である)、少くとも最高裁の判例のいうひんしゆくを買う程の反社会性を有するには至つていないと主張しているのである。全国的に著名な会社が、ひんしゆくを買うような就業規則を昭和四四年当時に維持できる筈がないのである。しかるに原判決が大多数の国民が会社の定年を積極的に容認しているかどうかという観点で論じたのは、会社の主張を歪曲するものでありこの意味でも理由齟齬であり承服し得ないところである。ひるがえつて、本件では被上告人は最高裁の示す意味での公序良俗違反は何ら立証し得なかつたのである。
二 次に原判決は「また、被告会社は、厚生年金保険法が定年年令の男女差別を公序良俗に反しないものとして肯認していると主張するが、そのように解すべき根拠は認められない。」とした。
しかし右判示も二重の意味で理由不備、理由齟齬がある。その一は会社の主張は厚生年金保険法は支給年令に五才の男女格差を設けているから会社の五才差の定年制も右法と同様に公序良俗に反しないというもので、原判決自身も当事者の主張として右のように摘示しているにも拘わらず、五才の差であるかどうかを問わず一切の男女差別定年制が厚生年金保険法で肯認されるとする趣旨に会社の主張を理解したうえで前記のような判示をしたことである。その二は厚生年金保険法は五才の男女格差を設ける唯一の立法例であつて、その意味で会社の定年制が公序良俗に違反しないとの主張の重要な根拠をなしている。厚生年金の受給開始年令との関係で具体的にいえば男子五五才女子五〇才という会社の定年制の下では定年退職後男女それぞれ五年経過してから厚生年金を受給するのであるから極めて平等であり合理的であるといつているのである。それにも拘わらず「そのように解すべき根拠は認められない」の一言のもとに逃げてしまつてどうして根拠が認められないか全く触れていないことである。そうであるから会社は上告審での判断を期待するものである。
三 次に原判決は「そして被告会社は、労働基準法に女子の保護規定がある以上男女との間に平等の取扱を要求するのは無理であると主張するが」として、産前産後休暇規定を理由に差別することはできないし、その他の保護規定があつてもすでに「事実上賃金その他の待遇面での不利益」を受けているのでさらに定年にまで差別しなければならない理由はないとした。
しかしながら、第一に本件で会社は女子保護規定について主張したが、産前産後休暇規定についてまでは言及していないのである。従つて産前産後休暇についてまで言及する原判決の判示は全く余分である。第二に、女子保護規定に関する会社の主張は二つある。その一つは、生理休暇、時間外、深夜労働、危険有害業務の制限のように合理的理由のない差別を法自体が認めているのであるから、五才の差しかない会社の定年制も右基準法の規定と同様に合理的理由がなくとも敢えて公序良俗に反するという程のものではないということである。ところが原判決はこの点について何ら判示していないのであるから全く理由不備である。さらにいえば、会社は民法の婚姻適令の男女差や女子の再婚禁止期間を六か月とする条文等も合理的理由のない差別規定であり、これらが許されるのなら会社の定年制も許されて然るべきだとも主張しているのであつて、この点についても全く触れない原判決は前同様理由不備である。もう一つの保護規定に関する会社の主張は、原判決が述べるように法による合理的理由のない差別が存在する以上それをたなにあげて平等を要求するのは無理であるというものである。ところで右主張は単に会社だけの個人的見解というものではなく、日本国も含めた世界先進国の考え方であるとして会社は主張している。従つて原判決はこの世界的考え方を否定するのは相当の勇気と慎重さを要する筈である。それにも拘わらずあたかも会社単独の見解のように会社主張を摘示して簡単にこれを否定したのは理由不備も極まれりというべきである。のみならず「事実上賃金その他の待遇面で不利益を受けている」からよいではないかとの判示は「事実上賃金その他の待遇面での不利益」というのが一体何を具体的に意味するのかさつぱりわからず要するに証拠に基かない独断であり理由不備である。しかも原判決の右独断は誤つている。何となれば原判決の独断が成立するとすれば日本国をも含めて世界各国から会社の主張するような考え方がほうはいとして起る筈がないのであつて、それにも拘わらず現に会社の主張する考えが世界的に存在するというのは、原判決の独断が誤つていることの何よりの証左なのであるからである。ここでどうしても述べなければならないのは、労働基準法研究会から労働大臣宛の昭和五三年一一月二〇日付報告書(女子関係)である。これは「労働基準法研究会は、昭和四四年九月三〇日発足以来、労働基準法の施行の実情及び問題点について調査研究を行つてきたが、このほど第二小委員会から提出された女子に関する基本的問題についての報告を適当と認めたので、別紙の通り報告する。」というもので、その結論の部分四一頁では「保護規定を設けながら、一方で男女平等を規定する場合、その保護の内容は合理的理由のあるものに限定されなければならない。現行の女子労働者に対する特別な保護規定の中には、現在では科学的根拠を失い、かえつて女子の就業の妨げとなつているものもある。男女平等を法制化するためには、合理的理由のない保護は解消し、母性機能等男女の生理的機能の差等から規制が最少限度必要とされるものに限られるべきである。」としているのであつて、これこそ大多数の国民の意見を代表するものであり、これによつて原判決こそ大多数の国民感情に反した誤つた判断をしているのが余すところなく立証されるのである。
四 最後に原判決は会社内における女子に対する時差通勤、遅刻早退の特例扱に関する会社の主張に対して「これらの特例扱と定年差別との間に関連性はないから、この点に関する被告会社の主張も採用することができない。」とした。
しかしながら、右は会社の主張を誤解した判示である。会社は、一方で男子よりも有利な特例扱を認めさせながら、他方で定年制が差別であり無効だとして平等を主張し訴権を行使するのは信義則に反して許されないと叫んでいるのである。これに対して何らの判断もしていない原判決は理由不備である。
五 以上述べた諸点はすべて会社の定年制が民法第九〇条に該当するか否かの問題であり、法律解釈であるから、原判決の判示は判決に影響を及ぼす法令違背ともいえる。
第六点 会社の定年制の合理性についての判断の理由不備、理由齟齬。
一 原判決は「ところで、定年年令に差別を設ける根本の理由として被告会社が主張するところは、賃金と労働のアンバランスであるが、右に認定したところによると、女子の担当職務は相当広範囲にわたつていて、その中には高度の技能を要するものがあり、又それほど高度の技能は要しないが、従業員の努力と会社側の活用策の如何によつては、経験を生かして会社に貢献度を上げうる職種が含まれているのであつて、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を会社に対する貢献度の上らない従業員と断定する根拠はないものといわなければならない。」とした。
しかしながら右の判示も全く証拠のない独断である。「右に認定したところによると」とあるが一体どの認定をいうのか不明であり原判決の認定中右判示の裏付となる部分は見当らない。よつてこれも理由不備、理由齟齬である。なお、会社の主張立証はすべての女子の業務が貢献度の上らないものばかりというのではなく、殆どがそうであつて貢献度の上るのはほんのわずかであるというものであることを念のため付記する。
二 次に原判決は「しかも右に認定したとおり、男子従業員はともかく女子については、年功序列型の賃金は支給されておらず、被告会社に対する貢献度の如何によつては、実質上昇給を受けられない仕組となつており、現にそのような取扱を受けている者のあることが認められるから、労働が向上しないのに実質賃金が上昇するというアンバランスが生じていると認めるべき根拠はない。そうであれば、被告会社のいう根本の理由自体認めることができない。」とした。
しかしながら右判示も誤つている。第一に女子について年功序列型の賃金となつていないことの根拠として原判決があげるのは、「名目賃金の上昇はほとんど消費者物価の上昇で吸収されてしまい実質賃金は上昇しないこと」及び「考課分は、従業員の職務、技能、成績によつて決められ、年令及び勤続年数は考慮されないこと」である。そうであるとするならば、原判決はこゝでも会社の主張立証を誤解していることになる。会社のいう年功賃金とは、貢献度が上らないのにも拘わらず賃金の方は毎年上るということである。しかして会社においては、女子は補助業務しか担当させられないので(基幹業務を担当させる余地があるのに故意に担当させないというのではなく、労基法上の保護規定による勤務の制約等のため業務運営上支障が生ずるのでそれができず、補助業務しか担当させられないということである。)、入社後数年で貢献度は上らなくなるにも拘わらず賃金の方は原判決も認めるように少くとも一律分は毎年昇給しているのであるから、それが消費者物価の上昇で吸収されようとされまいと年功型賃金には変りがないというのである。しかして、会社の主張する賃金と労働のアンバランスとは右のように貢献度が上らなくても賃金が上る結果をいうのである。なお原判決は会社の一律分の昇給は消費者物価の上昇で吸収されるというがこれも証拠にない推量である。昇給というのは各年を断片的にみれば少額のようであるが、毎年を通してみれば年々累積加算されるので決して少額ではないのである。もし原判決が消費者物価との関係で議論するのであるならば、その辺の事柄をもつと厳格に検討してからにすべきである。第二に、原判決が「被告会社に対する貢献度如何によつては実質上昇給が受けられない仕組」とする根拠は、甲第七五号証と昭和四七年七月四日の横山敏子の証言と思料される。しかしながら右証拠からすると、実質上昇給が受けられないと思われる者は横山一名である。しかも横山は、乙第四三号証の一と原審における今井栄久証言の通り毎日一五分遅れてきて一時間ないし四五分早退するという劣悪なむしろマイナス貢献度しかない勤務をしていたという特殊例外人物である。かかる例外的人物一名のみをとり上げて全体を論ずるのは背理というべきである。以上によつて明らかなように原判決の判示は理由不備、理由齟齬がある。
二 次に原判決は生理的機能についての会社の主張について「すでに認定したとおり、男女間に生理的機能の差異があるにかかわらず、少くとも六〇才前後までは、男と女とも通常の職務であれば今日の企業経営上要求される職務遂行能力に欠けることはない」等として排斥した。
しかしながら原判決はその判文からするとどうも昭和四九年から原審の口頭弁論終結時の頃の事実関係を念頭において判示しているようである。すべからく昭和四四年当時の事実関係に拠るべきで、その意味でまた理由不備、理由齟齬である。しかして会社の主張の根拠をなすのは、乙第二五号証で、これは昭和四三年二月に労働省婦人少年局編集のもとに再版されたもので、その中に「要するに上記のような生物学的な検査からみると……男女の定年に五才程度の差異があつてもそれを不可とするほどの根拠は見出し難いかもしれない。」とあつて、これが堂々とまかり通つていたのであるから、昭和四四年においても五才差の定年は少くとも大多数の国民感情に反していなかつたといえるのである。
三 次に原判決は「すでに認定したとおり、勤続年数においても男女間に大きな差異は認められない」とする。しかして右の根拠として「被告会社においては、女子の在職期間は比較的短く、入社後五年未満で八〇パーセント、一〇年以内に九八パーセント退職するのが実情であつたが、男子についても労働力の流動が激しく、昭和四六年四月に会社全体で約三〇〇〇名採用されたのが、翌四七年七月現在荻窪工場で残つていたのは一、二名という状況であつたこと、昭和四七年における全国規模の調査によると、女子の平均勤続年数は4.7年、男子のそれは9.2年であること」を認定している。
しかしながら、右のうち会社における男子の勤続に関するものは全く証拠がない。これまで検討してきたところから明らかなように、どうも原判決の判示には証拠に基かないところ多すぎるのである。全国規模の調査結果にしても原判決のように引き算式で差が少いとの見方もあるであろうが、割算式の見方もあるのであつて(現に労働省婦人少年局編婦人労働の実情昭和四一年版二二頁では「女子の平均勤続年数は3.9年……男子は7.8年で女子の倍」と述べて割算式をとつている。)、これによれば男子の勤続年数は何と女子の二倍にも達することになるのである。要するに統計数字の見方、評価の仕方は慎重でなければならない。以上もまた原判決の理由不備である。
四 次に原判決は「さらに被告会社は、男子は一家の大黒柱であるのに、女子は夫の生活扶助者で家庭内で就業する地位にあると主張するが、この主張が必ずしも社会の実情に合致せず、国民一般の認識とも相異るものであることは、すでに認定した通りである。」とした。
しかしながら、第一に会社は女子が家庭に留まるべきだもしくはそうなる宿命にあるのだという趣旨での主張をした覚えはない。このことはすでに述べた通りである。会社は昭和四六年一二月一〇日付準備書面によつて、男子五五才、女子五〇才とした理由の一つとして「女子が結婚後は家庭の主婦となり五〇才を超えてまで就職勤務することは、一般的に極めて稀である(会社においても従来から満五〇才を超えてなお勤続する女子従業員は殆どいなかつた)反面男子は一家の大黒柱として家族を扶養するとの社会的実情にある」と、単に社会的実情を述べたにすぎないのである。主婦が家庭を守るのは自律的なものであつて、他律的なものでないのが一般的とみるのが至当である。第二に原判決は夫が一家の大黒柱であることを否定するもののようであるが、果して裁判官自身の家庭がそういえるだろうか。また近隣の家庭をみてもそういえるであろうか。たとえ共働きの妻であつても夫を大黒柱ではないとするのがそんなに多いのであろうか。原判決は社会の実態と遊離しているとしかいいようがない。結局原判決は統計上の数字を自分の都合のよいようにもてあそんで、社会現象を極めて皮相的近視眼的にしか眺め得なかつたのである。
五 次に原判決は「労働力の需給の不均衡から生ずる経済的優位に乗じて、女子を女子なるが故に差別することは、企業経営の本来の筋道からはずれており、合理性があるとはいえない」とした。すなわち原判決によれば、過去の芸娼妓契約の如く経済的優位な地位に乗じて女子にやむなく入社させているというのである。
しかしながら、右判示は一見しても非常識である。女子の就職先が日産自動車しかないというわけではなく自由に選択しうる就職先が他に多数存在するのであるから右判示はそもそも理論的にいつて成り立ないのである。加えて被上告人の定年退職した昭和四〇年代はオイルショックまではむしろ男女ともに労働者の売手市場であつたのは顕著な事実であるからなおさらのことである。かくして右判示も理由不備、理由齟齬である。
第七点 判決に影響を及ぼす民法第九〇条の解釈の誤り。
判決に影響を及ぼすべき民法第九〇条の解釈の誤りについてはすでに上告理由第三点で主張したところであるが、こゝでは上告理由の最後として観点を変えて主張する。
これまで述べたところから明らかなように原判決には、証拠に基かない判示や上告人の主張を歪曲したり焦点をぼかしたりしたうえでの判示が随所に見受けられる。なぜこのようなことになつたかというと結論を先に出しておいて理由をこじつけたからとしか考えられない。しかして原判決は民法第九〇条と会社の定年制との関係を論ずるに当つて、「ところで女性の職業活動については、夫婦の役割分担に関連して積極消極両様さまざまな評価が行なわれ、被告会社のようにこれを消極的に評価する立場からは」として議論の端緒を夫婦の役割分担をいかにすべきかというところに置いている。前述したように、上告人は右判示にいうような立場を決してとつていないのであるが、原判決がありもしない上告人の立場を創造してまで論じようとしているのは、西ドイツと東ドイツの夫婦役割分担をいかにすべきかの論争対立を頭に置いてのことにほかならないと言わざるを得ない。すなわち西ドイツにあつては男子は家庭の外にあつて働き生活の資を稼ぎ、女子は家庭の内にあつてこれを守るべきであるとして職能を分化し、双方の価値は対等であるとする原判決のいう会社の立場と同様のものであるのに対し、東ドイツでは男女とも外にあつて平等に働くものとするのである(注釈民法(1)一四二頁)。
ところで、原判決は判文上明らかなように、西ドイツ方式はわが国の国情に合わぬとして否定した。しかして「妻が職業活動を行うか否かは、夫婦の責任ある決定に委ねるべきもの」とした。しかし責任ある決定といつても、妻が例えば家庭を守るのは嫌だからとか、夫の収入が少いからとか、あるいは何が何でも外で働きたいといつて外で働くことを希望するに至つた場合、西ドイツ方式を否定する原判決の立場をとれば、夫の方では家庭を守るべきであるとして反対するわけには行かなくなる。それゆえ原判決は妻が外で働くことを希望するときは自由平等に働かせるべきだとの東ドイツ方式の考え方をまさに採用していることになるのである。それが合理的理由のない男女差別定年はすべて公序良俗違反との結論につながるのである。
ひるがえつて日本の場合をみると、夫婦の職業分担は伝統的に原則として西ドイツ方式であつたといつてよい。ところが新憲法により女子の諸権利が保護されるに至り、共働きの増加と呼応するようにして、東ドイツ方式をとるべしとの声もある。しかしながら東ドイツ方式をとるべしとの立場からすれば、少くとも夫婦で家庭を平等に守るか最悪の場合は家庭を守ること自体を放棄するところに連るのである。しかも東ドイツ方式によれば、共働きの一方が転勤となれば別居が当然となり夫婦の意思にかかわりなく家庭は破壊されるのである。夫婦で平等に守るといつても果してそれでうまくゆくかどうかの歴史的保証もない。転居別居ともなればもはや家庭もなくなつてしまう。反面家庭を守るという見地からすれば西ドイツ方式は長年にわたる人類の知恵であり本能と化しているといつてよい。そうであるから共働きが増加したといつても、共働きの妻にあつても本来は自分が家庭を守るべきだとの意識は喪失していないのである。前述したように、結婚ないし出産により一旦退職し育児等家事に時間をさかれなくなつてからパートタイマーとして再び就職するという女子労働者の実態が如実にこれを物語るのである。しかもこれまた前述したように再就職した女子はもはや継続勤務の男子と平等には扱い得ないのである。
このようにみてくれば、昭和四四年当時にあつても西ドイツ方式が大多数の国民感情と合致するのが明らかである。このことは前にも指摘した労働基準法研究会の報告が四一頁で、男女平等を確保するためには、まずもつて「どのようなあり方を男女の実質的平等というのかについての国民的合意を得る必要がある」としていることからも裏付けされる。原判決が西ドイツ方式を否定し東ドイツ方式が公序良俗になつているとしたのは、現に存在する公序良俗ではなくて、むしろ原判決の描くあるべき公序良俗に基いて早計に判断を下したというほかはないのである。
以上の観点からしても原判決が判決に影響を及ぼす民法第九〇条の解釈の誤りを犯しているのが明らかである。
ちなみにいえば、原判決の言渡後になつて、上告をしてはならないとの抗議要請の行動が屡々会社に対してなされた。しかし行動者をみると、被上告人の所属する労働組合とこれを支援する若干の関係労働組合のみであり、会社に押しかけた者のうち男子が圧倒的に多い。これよりしても被上告人を支援するのは国民の大多数ではなく、若干の労働組合及び急進的な女子平等論者のみであることがわかる。しかもこれら行動参加者もいわゆる本音と建前とが一致していない節がある。何となれば、これ等の者をみると妻が家庭にいるのが少くないからである。
最高裁が少数意見を多数意見ととりちがえたり、本音と異る建前に惑わされないことを期待するものである。